「今いる社員は使えない…どこかに優秀な人材はいないのか?」
「うちの社員は勉強しない…どこかに優秀な人材はいないのか?」
「うちの社員は安定に満足してる…どこかに優秀な人材はいないのか?」
最近は、私も人付き合いを選び、このようなことを話す経営者とは付き合わないようにしているので、あまり耳にしませんが、経営者が集まると、このような話は日常茶飯事でしょう。一言でいえば「今いる社員は自分の思い通りにならないから、思い通りになる社員が欲しい」ということなのでしょう。
あなたはどちら派?
さて、あなたは彼らの欲求に対して、どのような思いを抱くでしょうか?その通りと思う人もいれば、そんなことはおかしいと思う人もいるでしょう。では、私はどのような思いがあるかというと、ズルいかもしれませんが「中庸」です。
ただ、以前の私であれば、これについては「人に対して使えないなどという言葉は、なんたることだ!」というところだったでしよう。私は大学時代は「人への動機づけ」を研究し、大学院時代は、その動機付けと人材育成を関連させ「労働経済学の視点の人材育成」を研究していました。
もちろん、そのときの私の考えは「人には無限の可能性がある」というものです。また、「人が育たないのは育成する側の問題」と考え、マネジャーにどうやったら、人の育成方法を学び実践できるかと思い、管理職側へのトレーニングの重要性を説いていました。
私の隠された生い立ち…
実は、これ…私の過去の経験がもとになったものでした。それには、私の生い立ちが関係しています。私は、1980年1月17日に生まれました。ただ、私も最近まで全く知らなかったのですが、私は今でいう赤ちゃんの集中治療室NICUに1ヶ月ほど入っていたようです。
なぜなら、、、私は約2ヶ月未熟児で生まれてしまったからです。自分が未熟児で生まれたのは、母からよく聞いていたのですが、ドラマなどで最近よく登場するNICUに入っていたのを知ったのは最近でした。そして、問題はここからでした。やはり、未熟児であった私は胎児の段階で発達すべき部分が発達しきれていなかったので、脳の発達が遅れていたようです。だから、両親は医師からこう言われたようです。
知能の発達が遅い…
「お子さんが、周囲の子と比べてできなくても、見守ってください。周囲のお子さんの知能に発達が追いつくのは小学校に入学する頃なので。」と。あっ、一つ忘れていました、生まれた直後には、「やれることはやりました。あとはこの子の生命力に掛けましょう」とも言われたようです…って、今こうお話しして気が付きましたが、けっこう深刻だったのですね(汗)
と、そんな感じでしたので、私は字が書けるようになったのが遅かったり、絵はとんでもなくヘタだったり、計算が全くできなかったり、とにかく発達が遅い子どものようでした。それこそ、あまりに遅い状況で、祖父が私をかわいそうに思ったようで、せめて名前くらいは書けないと…と思って、毎日ゆっくり教えてくれたようです。
とはいえ、私は全くそんな過去は知らず、すくすく育ったのですが、ある日こんなことに気が付きました。通知表の成績を見ると「1学期は悪く、2学期、3学期と尻上がりに良くなる」という傾向です。つまりは、こういうことです。自分で言うのもなんですが、私はどちらかと言えばコツコツ型なので、物事の飲み込みは悪いが、コツコツ続けることで、徐々に道が開けるということでした。
実は、これが私の原点
実は、これが私の人材育成に着目した原点でした。世の中には、はじめから8割できてしまう人がいます。その一方で、全くできない人がいます。後者は、まさに私です。今思えば、クルマの免許を取りに教習所に通ったときもそうでした。周囲は、比較的はじめから上手く乗っているのに、私は…という感じでした。ただ、仮免を取るころから加速度的に技術があがり、最終的には教官もほぼ手放し状態になり、難なく免許を取得しました。
というように、人間にははじめからある程度できる人と、コツコツ型でできるようになる人がいます。だから、私は世の中に、私のような人材を見捨ててほしくないという思いから、人材育成分野を専門に研究をしていました。私からすれば、「人に対して使えないなどという言葉は、なんたることだ!」という思いが強かったのです。
警告!!右か左に偏ってしまうと…
ただ…この2年で、それは右か左に偏った誤った思考だということに気が付きました。まさに、パラダイム・シフトです。何でもそうですが、一番強いのは、右か左のどちらかに偏ったものではなく「中庸」です。右に偏れば、左を切り捨てます。でも、左を切り捨てても、また左が存在するので、また左を切り捨てます。でも、また左が存在します。だから、左を切り捨てる…こんなことを繰り返すと、いつしか人は、受容できる範囲が狭くなり、小さな存在になってしまいます。
まさにこれが、パラダイム・シフトが起きる前の私の思考でした。そこで私は、これまで対極にあった「今いる社員は使えない」などの言葉の事実の奥にあるものが何か考えてみました。すると、こんなことが分かったのです。
川魚は海で泳ぎ続けられる?
「人には、それぞれ活きる場所がある。それを超えた領域で活躍しろというのは傲慢であり、その人の人生を不幸にする可能性がる。」と。これは決して、見捨てるという意味は入っていません。例えるなら、「川魚を海で泳がせるようなことはしない」ということです。反対に「マグロに川で泳げと言わない」ということです。
私も最近になりようやく分かったのですが、人にはそれぞれの潜在才能があります。では、その潜在能力はどこからできるかという話にも踏み込みたいのですが、今回は割愛します。とにかく、人にはそれぞれ潜在能力があります。ただ、その潜在能力は、全員一緒ではありません。バラバラです。
でも、今の日本企業は大小問わず、人材育成をする際「対象者の潜在能力」を考慮して育成している人たちはいないでしょう。あるのは、アセスメントによる「傾向分析=タイプ分析」です。もちろん、大企業で早期選抜などをしている企業は、その人の潜在能力を見て「この人は将来伸びそうだ」という判断のもと対象者が決められていると思います。
アセスメントで重視しているのは…
もちろん、その視点は良いのですが、その次に必要なのが「その人と、どの先達を組み合わせれば、想定通り成長するか」でしょう。実は、ここが案外曖昧です。私が尊敬する研究者も結局は、そういった人材を育成するには「修羅場経験が必要」と述べています。
では、その修羅場経験をさせるために企業がどうするかと言えば、非常にサンプル数の少ない中での傾向分析や、◯◯理論という名前のついたアセスメントなどで人柄や性格に代表される人間的側面を見て、人選するでしょう。または先達と組み合わせるときも、潜在能力に関係なく「あの人とあの人は似ているから」「性格的に組み合わせが良いから」「◯◯理論の組み合わせとして良いから」などと、「実」の部分の潜在能力ではなく、人間的な側面を見て判断するでしょう。
つまり、魚で例えれば、日本企業で行われているのは、本当は川魚なのに、早期選抜という大海に投げられ「あなたは魚なんだから、海でも泳げる!」と根性論で言っている可能性が高いということでしょう。もしくは、本当はマグロの稚魚ではないので「あなたは海魚なのだからマグロになれる!」と根性論を言って、マグロでない魚に無理やりマグロにさせようとしているでしょう。川魚はどこまでいっても川魚で海では生きていけません。マグロではない魚は、どこまでいってもマグロにはなれません。
こんな間違いしてませんか?
だから、今の日本企業では、こんなことが起きてる可能性があるのではないでしょうか?
◯川魚に「海で泳いで結果を出せ!」と要求し、泳げないと「使えない」と言ってしまう…
◯川魚に「海は広いから、どんどん泳いで活躍しなさい!」と良かれと思って大きな役割を与え、川魚を弱らせてしまう…
もちろん、私は◯◯理論という名前のついたアセスメントを否定するつもりは一切ありません。これは必須です。ただ、それらはどちらかというと、その人が「どこで活きる何の魚か?」と分析するのではなく、「すでに一種類の魚に決定したうえで、そのなかで、どのような性格か?」という「性格分析」になっているのではないかと思います。
それ人の人生を不幸にしてない?
そろそろ話をまとめましょう。結論はこういうことです。もちろん、人の可能性は無限大であるが、「その人の潜在能力を超える期待を企業側がしてしまうと、本人の人生をを不幸にする可能性がある」ということです。反対に「潜在能力がある人を早く見抜き、そこには早く投資し成長に合わせた役割がないと、それも本人の人生を不幸する可能性がある」ということです。
私の大きな過ち
実際、私も前者のことで、ある社員に人の可能性は無限大という思い込みを押し付け、彼に苦しい思いをさせてしまいました。ですが、彼の潜在能力を「成果の出しやすさ」「効率の良さ」という2軸で定量的に調べたところ、彼の適切な範囲は海ではなく池であることが分かりました。
思い返せば、彼が活き活き働き、良い成果を出しているときは、海での仕事ではなく、池での仕事でした。ただ、それを私を含めた役員の思い込みで「もっと成長できる」と考え、池にいる魚を海に飛び込ませてしまいました。もちろん、その結果は会社に大きな損失を与えるほどのマイナスの結果です。そして本人も顔がつらそうなになり、出社する様子が以前とは違ってきました。
彼の潜在能力を明らめる
私は、池であれば活きる彼を、ムリに荒波の立つ海に飛び込ませていたのです。これでは死んでしまいます。だから、先日からその思い込みの過ちを認め、彼を池に戻し、彼が伸び伸び泳げるようにしました。池にいる魚には、例えば、子どもが「あっ、お魚さんだ!」と楽しませることができます。でも、海にいる魚は、子どもが見えるところにはいないので、楽しませることはできません。
彼にはこれから、池で伸び伸び泳いで、子どもたちを楽しませる才能を十分に発揮していただきたいと思っています。そして、まさにこれが、諦めるの語源「明らめる」なのでしょう。私が彼の潜在能力を明らめることで、今度は、お門違いな要求をしなくなるので、彼が彼らしく人生を歩めるのでしょう。
追伸
そうそう、一つ言い忘れました。。。そもそも潜在能力がどこからできるのか…実はこれ非常に深い話です。最近、私も科学的根拠と、紀元前から続く統計データに基づく学問の両方を学んでわかってきました。ぜひ、その話も今度しようと思います。
あっ、あとSee→Do→Getの原則の話もありました。これも今度!
ー秋山大介